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平壌作戦

8月に清国軍は平壌に1万2千名の兵員を集中させる。9月15日に日本軍が攻撃を開始する。攻略に当たっていた日本軍の歩兵第18連隊長佐藤正大佐は銃弾を受け左足切断の重傷を負う。同日午後4時40分に清国軍は白旗を掲げて翌日の開城を約した。ところが、清国軍は、約を違えて逃亡を図る。同日夜に日本軍が入城する。

黄海上で遭遇した日清両艦隊は、9月17日12時50分に「定遠」から攻撃が開始される。日本側は連合艦隊司令長官伊東祐亨中将率いる旗艦「松島」以下8隻と第一遊撃隊司令長官坪井航三少将率いる旗艦「吉野」以下4隻であるのに対して、清国艦隊は丁汝昌提督率いる「定遠」「鎮遠」等14隻と水雷艇4隻であった。日本艦隊は、清国「超勇」「致遠」「経遠」等5隻を撃沈し、6隻を大中破「揚威」「広甲」を擱座させる。日本側は4隻の大中破を出し、旗艦「松島」の戦死者の中には勇敢なる水兵と謳われた三浦虎次郎三等水兵もいる。

この海戦で日本側が勝利したことによって、清国艦隊は威海衛に閉じこもることとなり、日本海軍は黄海・朝鮮の制海権を確保した。

10月25日払暁に、山縣有朋率いる第1軍主力は渡河作戦を開始した。日本軍の猛勢に恐れをなした清国軍は我先にと逃走を図り、日本軍は九連城を無血で制圧する。この作戦成功により、日本軍は初めて清国領土を占領する。

10月24日に大山巌大将率いる第2軍が金州に上陸する。11月6日に金州城を占領する。11月21日に、日本軍1万5千は清国1万3千弱に対して攻撃をする。清国軍の士気は極めて低く、堅固な旅順要塞は僅か1日で陥落することとなる。
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日本側の損害は戦死40名、戦傷241名、行方不明7名に対して、清国は4500名の戦死、捕虜600名を出して敗退する。

攻略そのものは問題なかったが、その後の占領において大きな問題が発生した。『タイムズ』(1894年11月28日付)や『ニューヨーク・ワールド』(同年12月12日付)により、「旅順陥落の翌日から四日間、非戦闘員・婦女・幼児などを日本軍が虐殺した」と報じられたのである。虐殺の有無や、虐殺された人数については諸説あるが、実際に従軍し直接見聞した有賀長雄は清国民間人の巻き添えが有ったことを示唆している。現在、この事件は旅順虐殺事件(英名:the Port Arthur Massacre)として知られている。

この事件は外交的に大きな影響をもたらした。当時はアメリカと不平等条約改正を交渉中の最中であり、この事件により一時アメリカ上院には条約改正は時期尚早という声が大きくなり、重要な外交懸案が危殆に瀕した。陸奥宗光はこのため『ニューヨーク・ワールド』に弁明せざるを得なくなる事態に陥ることとなった。

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2009年06月01日 13:35に投稿されたエントリーのページです。

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